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2018.02.05(月)

バドミントン部を創部されたOBの北川浩一様から創部当時の様子をご執筆いただきましたので、ご本人の写真と、ともに掲載します。

 

同志社大学体育会バドミントン部創立期

―1949(昭和24)年~1953(昭和28)年をたどって―

               

                           北川 浩一(初代主将 1953年経済学部卒)

 

 

バドミントン部を創立した時の経緯や思い出」という本題にはいる前にその頃の時代背景の様な事に少し触れてみたい。

 

最近、ある同志社校友会の懇親会で、かなりの年配女性に「先輩の頃は、学生服を着ておられたのですか」と聞かれて、一瞬、何の事かを理解できなかった。

昭和20年代は、男子学生は、同志社大学独特の四角い制帽と、どの大学もほぼ共通の黒い詰襟服を着用が常であったからだ。大学構内で見かける学生で、制服を着ていない連中は、屋外で練習をしている運動部員くらい。そして、女子学生。若し見かければという話。1950年前半では、体育会に所属する女性は勿論、女子大学生の数自体が僅少であった(隣接の同志社女専/女子大生を別にして)。

 

また、その頃では、同志社大学と言えば、今で言う、今出川キャンパスのみを指していた。大学構内には、良心館や隣接の2館はなく、そこは、同志社中学、その体育館と運動場があった。正門を出れば今出川線、西門では烏丸通り線の市電が走っていた。

 

以下は、そんな時代の話です。

 

1949/1950年頃に、京都YMCAのバドミントン・クラブでプレイ仲間だった中井と北川は、学内でバドミントンに興味を持っている連中を集めて同志社バドミントン・クラブを結成した。

 

いわゆる同好会レベルのクラブが体育会の部として認められるには、当該競技の連盟公認の大会で優勝実績があるのが要件であった。当時は、関西にある大学バドミントン部の実力は、殆どが初心者レベル。どんぐりの背比べ。従って、我がクラブは、関西、京都での大会でそれなりの成績を挙げることが出来ていた。そこで、体育課と体育会本部と交渉した結果、成功して、体育会の猛者幹部と渡り合えたノッポの富田副主将の努力もあり、1951(昭和26年)に、体育会のバドミントン部として昇格を果たした。

 

バドミントン部が体育会に認められたことにより、先ず、部費の予算枠を得たのが大きな成果であった。それまで、部員の自前で賄ってきた出費が、僅かながらも部費で補えることになったからだ。

 

そして、もう一つ大きかったのが、推薦入学の枠も獲得したことだ。これにより、レベルの高い高校生の入学を期待出来るようになったのだ。事実、その枠のお陰で、その後の同志社大学バドミントン部の発展に大きく寄与した新入生、高谷を得たのだ。推薦枠ではもう一人、51年の愛知国体高校の部に出場経験者を加えることも出来た。

 

また、この年(1952年)には、推薦枠によってではないが、強豪上田の入部があった。そして奈良の高校で活躍していた岡本が加わる。この年の補強が、関西学生リーグ優勝に繋がっただけでなく、「類は類を呼ぶ」で、我がバドミントン部は翌年も翌々年と勢いを伸ばしていった。

 

話を、1950/1951年頃にもどして、練習に関しての話をすれば、大学構内には体育館がなく、教会と父兄からの寄付で裕福であった同志社中学の体育館〈彰栄館の裏手にあった〉を特別の計らいで使わせてもらっていた。当然、そこでの練習回数は、非常に限られていた。

 

従って、練習は、技術向上というより、体力強化といった感で、隣接の御所内を走り、その後、中学の体育館の敷地であった運動場で「インドネシヤでは、夕凪に屋外でプレイが普通」という言葉を思い出しながら、素振り、そして、風に悩ませられながらも尾羽打ち枯らしたシャトルコックでのラリーを繰り返す、といった具合であった。

 

屋外練習では、何処で着替えをしていたかだ。もちろん部室なんて無い。ただ、リフォーム前のハリス理化学館の一階には、体育会本部があり、二階にガランとした、埃が漂っているような、広い部屋があった。そこを、体育会で部室がない各部が利用していたと思うが、その片隅を部室替わりに使っていた。

 

その頃は、屋内競技の各部は少なからず、我が部と似たような練習場不足の悩みを抱えていたと思える。例えば、空手部が中学の運動場で練習するのを、屋外競技であるゴルフ部でさえ、チャペルの横の校庭で素振りをしているのを見かけた記憶がある。

 

兎にも角にも、練習場の不足で、同志社大学バドミントン部のキャプテンは技術のレベルアップよりも、無料で使用できるコート探しに躍起といった状態が続いた。

 

それにも増して、厳しかったのは、部の懐具合。ボロボロになったシャトルコックでさえ大切に使いながらも、シャトルコック不足が続いた。校庭西門を出て、烏丸通の市電路面を跨いだところにあった竹内運動具店のおばさんに、何時になったら清算出来るかさえ分からないのに、ツケでシャトルコックを融通してもらっていた。

 

費用面では、部員個人的にも大変であった。その頃のラケットのフレームは木製合板で折れ易く、純正ガットは切れ易く、修理費用がかなりの負担であった。

 

その頃の部の戦力に関して、前述で「部員の殆どは初心者」と言ったが、一人例外が居た。湯瀬である。何故か、OB名簿に名前が記載されていない。彼は、石川県のバドミントン強豪校、七尾高校の出身であり、貢献度の高い活躍をしてくれた。

 

名簿に記載のない名前をもう一人加えると、阿部さん。初の女子部員といえるか? 岐阜県の出身と聞いていた。多分、在籍期間が短かったのだろう。

 

女子部員に関連して思い出したのは、当時、女子大と校舎が同じだった女子高でコーチヅラをして練習をしたことや、四国・高松での合宿も経験したことだ。

 

部の合宿は、1951(昭和26)年、岐阜出身の岩崎が世話役で岐阜市近郊で行い、皆、大いに楽しんだという記憶がある。

 

以上、70年前の、同志社大学バドミントン部誕生記を回顧してみました。

 

2017.10.29 関東同志社スポーツユニオン総会(学士会館)にて  

           

豊原同志社スポーツユニオン会長(バドミントン部OB・OG会名誉会長)と 

 

○同志社大学体育会バドミントン部創設者であり、初代主将の北川浩一先輩は、現在、埼玉県取手市に住んでおられます。この度、同志社大学体育会バドミントン部創立期のことをご執筆いただくようお願いしましたところ、昨年11月末に送ってくださいました。この貴重な内容は、バドミントン部ホームページに掲載するとともに、現在同志社スポーツユニオンが発刊の準備を進めております『同志社スポーツの歩み・第三班』にも掲載を予定しております。                     

                                                                                                                                                           OB・OG会幹事長 鷲江

 


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